2015年10月14日水曜日

音「楽」と学び合いー打楽器を使った音楽づくり

今年のコンクール曲は、とても難しいです。

1年生にはなかなか弾けません。

弾けない時、弾けない子がどういう気持ちになるか...

そう考えるだけで、寒気がします。


さて、今回のコンクール曲は、舞曲ということで、拍感が大切になります。
リズムがしっかり取れていれば、あとは指が動くまで練習を重ねればいいですね。
逆に、いくら指が動いても、リズムが譜面通りでなければ、合奏になりません。

そこで考えたのが、拍、ビートを刻む人を作ろうということでした。

1. ビートで感じる「学び」


拍、ビートは、音楽の基礎です。

ソルフェージュ(読譜術)を行う際に、きちんと拍を刻んで、リズムと音を取っていく、
この作業を行うことで、「自分で」音楽を作ることができます。

合奏の場合、そこまでソルフェージュを徹底できないのですが、
みんなで拍を刻んだり、歌ったりする時間を設けています。

そうすることで、音楽の基礎を大切にする姿勢を身につけて欲しいからです。

この試みの中で、子どもたちは自分の音の取り方があやふやだったことに気がつきます。
「あ、こういうところで遅くしていたんだ」、「難しいメロディを速く弾きすぎていた」などなど。

そして、ビートを感じることで、音楽に緩急が生まれ、自然な呼吸の中で歌うことができるようになります。

このように、単に拍、ビートを刻むだけで、音楽の基礎だけでなく、多くのことを子どもたちは「学ぶ」ことができます。

2. ビートで作る「学び合い」


次に考えてみたいのが、合奏の中で、拍、ビートを刻むパートを作ることの効果です。

ここまでの実践の中で、見受けられたのが、楽器を演奏する側の「気づき」でした。
ビートを刻むパートが入ることで、
「勝手に遅くしていた」、「長音符を伸ばしきっていなかった」、「変拍子の拍感がわかった」などの「気づき」がありました。

特に、拍子感の大切な楽曲の場合、この影響は顕著になります。

今回、変拍子の舞曲を演奏する上で、このビート・パートに、
タンバリン、カスタネット、マラカス、クラベスなどの、
部室にある操作しやすい楽器を持たせてみました。

すると、手拍子では感じ取りきれない、ビートの鋭さや強度を知ることができました。
特に、8分の5拍子の後ろの2拍の持っている力強さを表現できました。

このようにして、打楽器を入れることで、シンプルな拍子を通じて「学び合い」ができます。

打楽器のパートは、
正確なテンポやリズム、そしてそれに則した歌い方を学ぶことができます。何より、その曲の持っている鼓動を感じることができるのはこのパートが一番です。

楽器演奏者は、
上記のように多くのことに気がつきます。基礎・基本でおろそかになっていたこと、今まで感じていなかった作品の側面などです。

そして何より、その作品の「楽しさ」を知ることができます。

3. 音「楽」をつくるということ


音楽の「楽」という漢字、その成り立ちについては、諸説あります。
ネットを検索すると、「鈴」のような「古代楽器」が起源だという説をよく見かけます。

先日購入した本で、
多田・フォン・トゥビッケル 房代さんの『響きの器』にこんな説が紹介されていました。

「音楽の『楽』ってね、
人と人とが木を組んだ矢倉の上で、
向かい合って太鼓を真ん中に打つ姿なんだよ」


もちろん、多田さんもこの説は聞いたことも見たこともないとおっしゃってます。
でも、心が躍るような言葉ですね。

響きを、楽器だけでなく、鼓動としての響きを身体で感じること。
その響きを、他の誰かと共有すること。

これが「楽」。音楽とはかくあるべきかと思いました。

たぶん、この試みを通じて、弾けないという理由で、
合奏から取り残される子どもたちは少なくなりました。

「学び」というものは、
必ずしも完璧にはデザインできるものではないけれども、
色々な試みを通じて、様々な体験を作り出すことができます。

我々指導者は、単に楽譜に書いてある音符を辿るだけではなく、
そこにある本質的なもの、ここでいう拍を、
その大切さと可能性をしっかりと理解して、
子どもたちの心の奥にある 音「楽」を育てていきたいですね。

4. 参考文献

多田・フォン・トゥビッケル 房代『響きの器』人間と歴史社、2000年。

2015年10月12日月曜日

ルールとひろがりー一貫性と開放性

子どもたちを指導していると、

「どうしたらいいですか?」と訊かれることがある。

一方で、私が「こうしなさい」と強く言う時、

「どうしてこれ(子どもの考え)ではダメなんですか?」と反発されることもある。

子どもたちには、大人たちが共有しているルールを知ろうとする好奇心がある。
一方で、自分の中のルールが周りとぶつかってしまうことがある。

指導者は、このルールに縛られ、振り回されるものである。

ここで、私の考える「音楽におけるルール」について考えてみたい。


1. 音楽におけるルール


音楽におけるルールとは、「譜面通りに弾く」ことだと私は考えている。

「譜面通りに弾く」と聞いて、なるほどと思う方も、面白くないと思う方もいるだろう。

「譜面」とは、作曲者から演奏者に宛てられた唯一のメッセージである。
昨今では、その「譜面」を基にした演奏音源が市販されていたり、インターネットを通じて視聴できる機会が増えた。
しかし、それらの音源が作曲者のメッセージを忠実に再現している保証はない。
大切なのは、「譜面」を通じて、作曲者と対話を繰り返すことである。

その対話の中で、得られるものは、ルールである。ルールは調和をもたらす。
譜面通りに音を取らずに、自分勝手なリズムで演奏していては、ハーモニーは生まれない。



「記譜」という文化が生まれたのは、西洋中世の修道院である。
多くの修道士たちが一つの歌を歌い、ハーモニーを作り出す必要の中で、譜面は生まれた。


余談だが、演奏記号が生まれたのも、この時期である。ラテン語の不出来な修道士たちの教育のために、譜面にラテン語で指示を記したそうだ。






ここで初めの子どもの疑問に戻ってみる。
「どうしたらいいですか?」という疑問は、楽器の演奏法に関するものか、もしくは譜面の読み方についてである。
譜面の読み方、つまりリズムの取り方や歌い方を統一しなければ、子どもたちは調和の感覚をつかむことができない。

調和の感覚を得るためには、まずは譜面通りに弾くということを目指すべきだと私は心がけている。


2. 音楽におけるひろがり


「精神的なものが精神を覆い隠す」

河合隼雄先生の『こころの処方箋』の一節である。

ここ最近、私は精神論を述べることが少なくなった。
もともと精神論者ではないのだけれども、
「コンクールは緊張感を持って」、「気迫」、「勝ちに行く」
という言葉を以前はよく述べていた気がする。

子どもに限らず、人の心は思い通りにならない。
それは音楽においても同じではないだろうか。

私も、こういう「イメージ」で弾こうと提案することはあれども、
それを強制することは、子どものイメージを私のイメージが覆い隠してしまう。

その際に子どもから寄せられる言葉は、「どうしてこれではダメなんですか?」である。
子どもの中に、自分で導き出したルールが存在しているのである。

こういうやり取りがあった後に何を説明しても、聞く耳を持ってもらえないことがほとんどである。
聞き入れてもらったとしても、そのあとの演奏は活き活きしていないことが多い。

ここに、子どもたちが自分で「学び」を行っているということを心に留めておきたい。
正解か不正解か、という言葉では言い表せない段階まで、子どもが「学び」を深めているのである。

こういった事態に陥るとき、私は子どもたちとのコミュニケーション不足を痛感する。
もっと早くから、彼らの「学び」に気がついていれば、彼らの「イメージ」について互いに話し合う関係が築けていればと反省する。

これは指導者と生徒という関係性だけの問題ではなく、生徒同士においても直面する問題である。

ただ、一方で、子どもたちの学びの深まりが、ルールを超えた「ひろがり」をもたらしているということも重要なことである。

子どもたちの「学び」の「ひろがり」を大切にするために、
その中で学び合いを保証するために、どのような実践ができるだろうか。


3. 一貫性と開放性における「学び合い」


以上の考察は、佐伯胖先生の『学びの構造』を読んで、自身の考えを整理したものである。

私が理解した範疇で要約すると、
「子どもたちは一貫性を求める。それは子どもが大人たちが共有しているルールを知ろうとする知的好奇心であり、正義を求める心である。
しかしながら、正義が支配する世界は存在しない。既知のルールが現実と矛盾するとき、子どもたちは、一貫性のひろがり、ルールの開放性を知ろうとする。
すなわち、対話を通じて周囲とルールを分かちあうことであり、より良いルールを模索しようとする試みである。」

私が主張しているポイントは、
子どもたちの知りたがる一貫性、守るべき「ルール」が調和をもたらすということ、
一方で、子どもたちの学びを深める開放性、「ひろがり」を、学び合いの中で保証することが大切であるということ、の2点である。


まず、試みるべきことは、子どもたちの中にあるルールを閉じたものにしないということ。
すなわち、指導者である私と、彼らの間で対話を重ねることである。

そこで、このようなメッセージカードを作ってみようと思っている。
彼らのイメージを言語化し、共有するということを目指してみる。

次に、例年行っていることであるが、模造紙にスコアを書き出し、全員でそこにイメージを書き込むというものである。上の試みは、そのための予行練習であると言っても良い。

最終的には、これらのイメージ、子どもたちがルールから導き出したものを共有し、互いに認め合い、時に高め合うことができる練習環境を作ること、すなわち彼らの学び合いを保証することを目指したい。

合奏を指導する際に、どうしても全体の形ばかり気にしてしまう。
その際に、私のルールを押し付けてしまうことで多くの失敗を重ねてきた。
子どもたちは、一個人であり、それぞれ個性を持っている。
その個性との対話に耳を傾け、彼らの学びを待つことが指導者には必要ではないだろうか。

そして、その対話をもたらすものが「愛」であり、
「愛」があるからこそ、全体の調和を志向し、より良いものを築くことができるのである。


4. 参考文献

佐伯胖『「学び」の構造』、東洋館出版社、1975年。
河合隼雄『こころの処方箋』、新潮社、1998年。

河合隼雄「今こそ「待つ力を」」、『音楽の力を信じて-「音楽教育ヴァン」からのメッセージ』、教育芸術社、2014年。

2015年10月2日金曜日

ナポリの第六音ーフラメンコの跳躍、高揚、浮遊

「舞踊風組曲第2番」には、ナポリの第6音が頻繁に登場する。
同作品がフラメンコをモチーフにしているということは、前回の記事で述べた通りである。

バルトークが民俗音楽を西洋音楽の語法で記す際に、ドビュッシー的な近代和声をはじめとして、教会旋法など、既存の様々な音楽との折衷を試みたことはよく知られている。

今回は、そのような視点から、ナポリの第6音とフラメンコの関係について調べてみる。


1. ナポリの第6音


ナポリの第6音とは、下属和音(サブドミナント)の第5音が上方転移し、根音から短6度をとるもの。
すなわち、旋律の第2音を半音さげたものという理解でもよい。


このような手法が17世紀ナポリの作曲家を中心に多用されたため、「ナポリの第6音」という名称になっている。

このナポリの第6音の効果は、通常の下属和音では得られない「高揚感」である。
この感覚はどこに由来するのか。

次項で、そのルーツを探ってみよう。


2. フリギア旋法


教会旋法のひとつにフリギア旋法がある。
すなわち、ミから始まる音階、ミファソラシドレのことである。
特徴は、「フリギアの2」と呼ばれる第2音が、主音に対して短2度の音程を取っているところである。そのため、「フリギアの2」は、「上からの導音」として扱われることもある。これにより、浮遊しているような感覚が得られる。

参考:フリギア終止
フリギア旋法とナポリの第6音の関係は説明できない。しかし、両者の共通点はフラメンコにおいても見られるものである。


3. ミの旋法

フラメンコでは、フリギア旋法によく似た音階が使われている。
それを「ミの旋法」と呼ぶ。第3音のGをGisとする場合もある。
直接の因果関係は不明だが、これがフリギア旋法に由来すると考えられるかもしれない。


また、Aを主音とする「ラの旋法」も上の旋法に次いでよく使われる音階である。
このように並記してみると、「ラの旋法」は、イ短調におけるナポリの第6音を含む音階とほぼ同じである。

最後に、「アンダルシア終止形」(IV-III-II-I)をラの旋法で記しておこう。

民俗音楽では、このように旋律に和声が付けられ、そのまま平行移動するような場合も多い。もちろん西洋音楽の文脈では洗練された響きになるように細心の注意が払われている。

この「アンダルシア終止形」では、II-Iの動きが旋律だけでなく、和声で肉付けされることによって、ダイナミックな「高揚感」と「浮遊感」を表現することに成功している。


4. まとめ

歴史的な経緯をここで述べることはできないが、作曲家がフラメンコの音階を用いる場合、上記のナポリの第6音やフリギア旋法によって、その民俗音楽的な要素を西洋音楽の語法で記すことができる。

すなわち、バルトークらの民俗音楽の開拓者はこのような試行錯誤を重ねていったということであり、20世紀の音楽における貴重な遺産である。

この民俗音楽と西洋音楽の折衷について、今後も探究を続け、理解を深めていきたい。

5. 参考文献

マヌエル・グラナドスフラメンコギタ-アカデミック教本』、RGB Arte Visual、2013年。
パップ晶子『バルトークの民俗音楽の世界: 子供のためのピアノ作品を題材に』、音楽之友社、2015年。

2015年9月22日火曜日

音楽における「心」と「比喩」

「みんなはその音で何を表現したい?」

そんな言葉が口をついた。直感的にそう思った。

「表現したいものがあって初めて、君たちは音楽をしているんじゃないかな?」

シーンとする教室。唐突な問いかけに緊張感が走る。

「さあ、パートごとに話し合ってごらん。」

子どもたちからは、
「澄んだ音」、「太い音」、「美しい音」、「しっかりした音」、「はっきりした音」など、多くの意見が返ってきた。

「協調性のある音」という答えもあった。
「協調性って何だい?」と意地悪な質問をしてみる。
「うーん、ハーモニーを作るということですかね...」と返してくれた。

この刹那的なやり取りにおいて、辞書的な解説は無意味だ。

これらの言葉の中にいくつかの「比喩」がある。
「澄んだ音」の「澄んだ」とは、水に濁り気がないことから来た言葉であり、視覚的な意味合いである。それが聴覚において、比喩として用いられている。
「太い音」というのは、聴覚において認識できるのであろうか?大きな音ならばわかるかもしれないが、「太さ」とは何だろうか?響きの豊かさの比喩であろう。

そして、「協調性のある音」というのは、明らかな比喩である。「協調性」とは人間関係において用いられる言葉であり、それをオーケストラにおけるバランス感覚の比喩に用いている。

ここまで「比喩」という表現を用いてきたが、子どもたちの表現が的外れであると言うつもりは毛頭ない。むしろ、彼らの表現が本質を突いているということを述べたい。


1. 比喩について

「言語の最も興味深い属性は、比喩を生み出す能力だ」
「比喩は言語活動上のたんなる余技とされがちだったが、まさに言語の土台にほかならない。」
上は、ジュリアン・ジェインズの著作から引用した。

我々の言語活動において、比喩は重要な役割を担っている。
上述したように、我々の「語彙」を原義的な次元から大きく発展させているものこそ、比喩である。

例えば、英語における"head(頭)"は、ある組織のトップであったり("headmaster(校長)")、どこかの先っぽ(テーブルの上座や釘の打面)を意味する。日本語でも「頭」は、先頭、頭領など、英語と同じように、実際の体の一部という意味合いから発展している。

その他の語彙についても同様であろうが、この記事での紹介は割愛したい。


2. 比喩と理解

比喩による理解は可能であろうか?

多くの人は「ノー」と思うかもしれない。しかし、理解というものを、「ある現象を既存の理論のモデルに当てはめる」という行為とするならば、これも一つの比喩ではないだろうか。すなわち、ある現象を、既知の、誰かが考え出し、論理的に洗練された、理論に「似通っている」と判断することを、一つの比喩と考えられないだろうか。

ここで、話を音楽に限定してみようと思う。音楽を理解するということは、やはり既存の理論や研究に依拠せねばならないとされている。つまり、和声学や対位法などの楽理的な把握と音楽史における評論と、自身の感受したものを突き合せる作業である。

しかし、これは、我々人間の感受するところの、ほんの一部分にしか過ぎないのではないだろうか。芸術は、我々の心に直接語りかける。その語りかけられた「言語なき音」を、理論だけでは表現できまい。

音楽における理解というものを、その場で感受した「音」を、自身の経験の中で培われた語彙の突き合わせる作業であるとするならば、「比喩」は音楽表現に欠かせない手段であるといえよう。


3. まとめ

音楽と比喩、そして、比喩と理解について、考えをまとめてみた。

音楽教育における言語活動の実践で、どれほど「比喩」が重視されているのかは、私の不勉強ゆえ把握できていない。

この実践を行おうと思ったのは、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』(柴田裕之訳、紀伊国屋書店、2005年)を読み、「比喩」という行為の重要性に気付かされたためである。





それは、我々の「心」がいかに朧げであるかということの裏返しでもある。我々は、自分たちの「心」が何かということすら、満足に説明できずにいる。

そこに開拓せねばならない荒野を見つけてしまった。
いや、もしかしたら、子どもたちもまた、その荒野の中にいるのではないだろうか。
自身の心と音楽とをつなげる言葉、すなわち「比喩」を探して。

最後にジュリアン・ジェインズの著作の冒頭の言葉を記載しておこう。

「心」についての壮大な比喩である。

 ああ、この心という、実体なき国。
 目に見えぬ光景と耳を打つ静寂の、なんたる世界であることか。
 このおぼろげな記憶、漠とした夢想の数々。
 えも言われぬエッセンスの、なんたる集まりであることよ。
 
 そして、すべての秘めやかさはどうだ。
 声にならぬ独白と、未来を予見する助言の秘密の劇場。
 あらゆる気分や思い、神秘が棲む、見えざる館。
 失望と発見が集う、果てしない場所。
 私たち一人ひとりが意のままに問い、可能な限りを命じ、孤独のうちに君臨する一大王国。
 自らの過去と未来の行状を収めた問題の書を、つぶさに調べ上げることのできる隠れ家。
 鏡に映るもののどれよりも自分らしい内なる宇宙。
 自己の中の自己、すべてでありながら何物でもない、
 この意識ーいったいその正体は?

2015年9月14日月曜日

Tanz-Suite Nr.2, Flamenco & Cante Jonde

舞踊風組曲第2番は、久保田孝氏の最高傑作と名高い作品である。
久保田孝氏のHPにある楽曲解説はこちら



筆者は以前、久保田孝氏による本作品の指導風景を見学させていただいたことがある。
その中で、久保田氏がフラメンコの要素を、ギターやマンドリンのアーティキュレーションに求められていたことを覚えている。

もちろん、本作品は、久保田氏の留学時に耳にした様々な民族音楽がベースにある。
その中でも、この記事ではフラメンコについて考察したい。


1. フラメンコとは何か?

フラメンコの歴史は不明な部分が多く、その起源については謎が多く残されている。
その担い手となったのは、アンダルシアに住み着いたジプシー(ヒターノ)である。

1842年には、フラメンコを呼び物とする酒場として、セビリアに「カフェ・カンタンテ café cantante」が現れる。踊り手はジプシーたちであった。

フラメンコが国際的に広まったのは、20世紀初頭と言われる。
1922年、作曲家として著名なマヌエル・デ・ファリャ、詩人ガルシア・ロルカの両人が、フラメンコの再生を目指し、「カンテ・ホンドの祭典」を開催した。グラナダ市や芸術センターの後援もあり、アンダルシア一帯からフラメンコの歌い手が集結し、スペイン内外の人々にフラメンコの真価を示したのである。

さて、フラメンコには幾つかの要素がある。
まず、歌である「カンテ cante」、
次に、踊りである「バイレ baile」、
さらに、ギターの演奏である「トーケ toque」、
このほかに、手拍子の「パルマ palma」、指鳴らしの「ピトー pito」、掛け声の「ハレオ jaleo」がある。
これらが一体となったものがフラメンコとして知られている。

この中の「カンテ」について、「カンテ・ホンド(深い歌)」という言葉がある。


2. 「カンテ・ホンド(深い歌)」とは何か?

「カンテ・ホンド cante jondo」とは、アンダルシアの民衆歌謡の中でも最も伝統的な形式を備えた歌である。

そのジャンルは、シギリージャ、ソレアー、トナー、ティエントなどがある。
「シギリージャ」:「タン・タン・ターン・ターン・タッ」という変則的な5拍子の舞曲。
「ソレアー」:2拍子と3拍子の混合リズムであり、12拍子をひとつのまとまりとする。
「トナー」:最古のカンテであり、無伴奏。一定のリズムを持たない。
「ティエント」:ゆったりとした2拍子系のカンテ。

この復興に携わった第一人者がガルシア・ロルカでり、上記の「カンテ・ホンド」の祭典の主催をし、著作には詩集『カンテ・ホンドの詩』がある。

彼の「カンテ・ホンド」についての言葉を挙げよう。
「私たちの『神秘的な魂』の、もっとも感動的で深い歌の数々なのです。私たちの歌心のいちばん輝かしく結晶した部分なのです」
「それは死んだ幾世代もの叫びです。消えた幾世紀もの、突き刺す哀歌なのです。ほかのさまざまな月、ほかのさまざまな風のもとでの愛の、悲痛な追想なのです」

アンダルシアの最も「神秘的な魂」の、もっとも感動的で深い歌であり、死んだ幾世代もの叫び、それが「カンテ・ホンド」である。


3. まとめ

久保田孝氏が、どのようなフラメンコの作品から着想を得たのかは定かではない。

しかし、フラメンコには、伝統的な形式があり、スペインの「神秘的な魂」がある。

このような精神性をはらむ豊かな音楽性が「舞踊風組曲第2番」には存在し、そこに「深い歌(カンテ・ホンド)」があるということを我々は知っておきたい。


4. 参考文献

中丸明『ロルカ−スペインの魂〈集英社新書 0053F〉』、集英社、2000年。
ロルカ生誕百周年記念実行委員会編『ロルカとフラメンコ−その魅力を語る』、彩流社、1998年。
(株)イベリアHP(http://www.iberia-j.com/)