「どうしたらいいですか?」と訊かれることがある。
一方で、私が「こうしなさい」と強く言う時、
「どうしてこれ(子どもの考え)ではダメなんですか?」と反発されることもある。
子どもたちには、大人たちが共有しているルールを知ろうとする好奇心がある。
一方で、自分の中のルールが周りとぶつかってしまうことがある。
指導者は、このルールに縛られ、振り回されるものである。
ここで、私の考える「音楽におけるルール」について考えてみたい。
1. 音楽におけるルール
音楽におけるルールとは、「譜面通りに弾く」ことだと私は考えている。
「譜面通りに弾く」と聞いて、なるほどと思う方も、面白くないと思う方もいるだろう。
「譜面」とは、作曲者から演奏者に宛てられた唯一のメッセージである。
昨今では、その「譜面」を基にした演奏音源が市販されていたり、インターネットを通じて視聴できる機会が増えた。
しかし、それらの音源が作曲者のメッセージを忠実に再現している保証はない。
大切なのは、「譜面」を通じて、作曲者と対話を繰り返すことである。
その対話の中で、得られるものは、ルールである。ルールは調和をもたらす。
譜面通りに音を取らずに、自分勝手なリズムで演奏していては、ハーモニーは生まれない。
「記譜」という文化が生まれたのは、西洋中世の修道院である。
多くの修道士たちが一つの歌を歌い、ハーモニーを作り出す必要の中で、譜面は生まれた。
余談だが、演奏記号が生まれたのも、この時期である。ラテン語の不出来な修道士たちの教育のために、譜面にラテン語で指示を記したそうだ。
ここで初めの子どもの疑問に戻ってみる。
「どうしたらいいですか?」という疑問は、楽器の演奏法に関するものか、もしくは譜面の読み方についてである。
譜面の読み方、つまりリズムの取り方や歌い方を統一しなければ、子どもたちは調和の感覚をつかむことができない。
調和の感覚を得るためには、まずは譜面通りに弾くということを目指すべきだと私は心がけている。
2. 音楽におけるひろがり
「精神的なものが精神を覆い隠す」
河合隼雄先生の『こころの処方箋』の一節である。
ここ最近、私は精神論を述べることが少なくなった。
もともと精神論者ではないのだけれども、
「コンクールは緊張感を持って」、「気迫」、「勝ちに行く」
という言葉を以前はよく述べていた気がする。
子どもに限らず、人の心は思い通りにならない。
それは音楽においても同じではないだろうか。
私も、こういう「イメージ」で弾こうと提案することはあれども、
それを強制することは、子どものイメージを私のイメージが覆い隠してしまう。
その際に子どもから寄せられる言葉は、「どうしてこれではダメなんですか?」である。
子どもの中に、自分で導き出したルールが存在しているのである。
こういうやり取りがあった後に何を説明しても、聞く耳を持ってもらえないことがほとんどである。
聞き入れてもらったとしても、そのあとの演奏は活き活きしていないことが多い。
ここに、子どもたちが自分で「学び」を行っているということを心に留めておきたい。
正解か不正解か、という言葉では言い表せない段階まで、子どもが「学び」を深めているのである。
こういった事態に陥るとき、私は子どもたちとのコミュニケーション不足を痛感する。
もっと早くから、彼らの「学び」に気がついていれば、彼らの「イメージ」について互いに話し合う関係が築けていればと反省する。
これは指導者と生徒という関係性だけの問題ではなく、生徒同士においても直面する問題である。
ただ、一方で、子どもたちの学びの深まりが、ルールを超えた「ひろがり」をもたらしているということも重要なことである。
子どもたちの「学び」の「ひろがり」を大切にするために、
その中で学び合いを保証するために、どのような実践ができるだろうか。
3. 一貫性と開放性における「学び合い」
以上の考察は、佐伯胖先生の『学びの構造』を読んで、自身の考えを整理したものである。
私が理解した範疇で要約すると、
「子どもたちは一貫性を求める。それは子どもが大人たちが共有しているルールを知ろうとする知的好奇心であり、正義を求める心である。
しかしながら、正義が支配する世界は存在しない。既知のルールが現実と矛盾するとき、子どもたちは、一貫性のひろがり、ルールの開放性を知ろうとする。
すなわち、対話を通じて周囲とルールを分かちあうことであり、より良いルールを模索しようとする試みである。」
私が主張しているポイントは、
子どもたちの知りたがる一貫性、守るべき「ルール」が調和をもたらすということ、
一方で、子どもたちの学びを深める開放性、「ひろがり」を、学び合いの中で保証することが大切であるということ、の2点である。
まず、試みるべきことは、子どもたちの中にあるルールを閉じたものにしないということ。
すなわち、指導者である私と、彼らの間で対話を重ねることである。
そこで、このようなメッセージカードを作ってみようと思っている。
彼らのイメージを言語化し、共有するということを目指してみる。
次に、例年行っていることであるが、模造紙にスコアを書き出し、全員でそこにイメージを書き込むというものである。上の試みは、そのための予行練習であると言っても良い。
最終的には、これらのイメージ、子どもたちがルールから導き出したものを共有し、互いに認め合い、時に高め合うことができる練習環境を作ること、すなわち彼らの学び合いを保証することを目指したい。
合奏を指導する際に、どうしても全体の形ばかり気にしてしまう。
その際に、私のルールを押し付けてしまうことで多くの失敗を重ねてきた。
子どもたちは、一個人であり、それぞれ個性を持っている。
その個性との対話に耳を傾け、彼らの学びを待つことが指導者には必要ではないだろうか。
そして、その対話をもたらすものが「愛」であり、
「愛」があるからこそ、全体の調和を志向し、より良いものを築くことができるのである。
4. 参考文献
佐伯胖『「学び」の構造』、東洋館出版社、1975年。河合隼雄『こころの処方箋』、新潮社、1998年。
河合隼雄「今こそ「待つ力を」」、『音楽の力を信じて-「音楽教育ヴァン」からのメッセージ』、教育芸術社、2014年。
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