2015年9月22日火曜日

音楽における「心」と「比喩」

「みんなはその音で何を表現したい?」

そんな言葉が口をついた。直感的にそう思った。

「表現したいものがあって初めて、君たちは音楽をしているんじゃないかな?」

シーンとする教室。唐突な問いかけに緊張感が走る。

「さあ、パートごとに話し合ってごらん。」

子どもたちからは、
「澄んだ音」、「太い音」、「美しい音」、「しっかりした音」、「はっきりした音」など、多くの意見が返ってきた。

「協調性のある音」という答えもあった。
「協調性って何だい?」と意地悪な質問をしてみる。
「うーん、ハーモニーを作るということですかね...」と返してくれた。

この刹那的なやり取りにおいて、辞書的な解説は無意味だ。

これらの言葉の中にいくつかの「比喩」がある。
「澄んだ音」の「澄んだ」とは、水に濁り気がないことから来た言葉であり、視覚的な意味合いである。それが聴覚において、比喩として用いられている。
「太い音」というのは、聴覚において認識できるのであろうか?大きな音ならばわかるかもしれないが、「太さ」とは何だろうか?響きの豊かさの比喩であろう。

そして、「協調性のある音」というのは、明らかな比喩である。「協調性」とは人間関係において用いられる言葉であり、それをオーケストラにおけるバランス感覚の比喩に用いている。

ここまで「比喩」という表現を用いてきたが、子どもたちの表現が的外れであると言うつもりは毛頭ない。むしろ、彼らの表現が本質を突いているということを述べたい。


1. 比喩について

「言語の最も興味深い属性は、比喩を生み出す能力だ」
「比喩は言語活動上のたんなる余技とされがちだったが、まさに言語の土台にほかならない。」
上は、ジュリアン・ジェインズの著作から引用した。

我々の言語活動において、比喩は重要な役割を担っている。
上述したように、我々の「語彙」を原義的な次元から大きく発展させているものこそ、比喩である。

例えば、英語における"head(頭)"は、ある組織のトップであったり("headmaster(校長)")、どこかの先っぽ(テーブルの上座や釘の打面)を意味する。日本語でも「頭」は、先頭、頭領など、英語と同じように、実際の体の一部という意味合いから発展している。

その他の語彙についても同様であろうが、この記事での紹介は割愛したい。


2. 比喩と理解

比喩による理解は可能であろうか?

多くの人は「ノー」と思うかもしれない。しかし、理解というものを、「ある現象を既存の理論のモデルに当てはめる」という行為とするならば、これも一つの比喩ではないだろうか。すなわち、ある現象を、既知の、誰かが考え出し、論理的に洗練された、理論に「似通っている」と判断することを、一つの比喩と考えられないだろうか。

ここで、話を音楽に限定してみようと思う。音楽を理解するということは、やはり既存の理論や研究に依拠せねばならないとされている。つまり、和声学や対位法などの楽理的な把握と音楽史における評論と、自身の感受したものを突き合せる作業である。

しかし、これは、我々人間の感受するところの、ほんの一部分にしか過ぎないのではないだろうか。芸術は、我々の心に直接語りかける。その語りかけられた「言語なき音」を、理論だけでは表現できまい。

音楽における理解というものを、その場で感受した「音」を、自身の経験の中で培われた語彙の突き合わせる作業であるとするならば、「比喩」は音楽表現に欠かせない手段であるといえよう。


3. まとめ

音楽と比喩、そして、比喩と理解について、考えをまとめてみた。

音楽教育における言語活動の実践で、どれほど「比喩」が重視されているのかは、私の不勉強ゆえ把握できていない。

この実践を行おうと思ったのは、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』(柴田裕之訳、紀伊国屋書店、2005年)を読み、「比喩」という行為の重要性に気付かされたためである。





それは、我々の「心」がいかに朧げであるかということの裏返しでもある。我々は、自分たちの「心」が何かということすら、満足に説明できずにいる。

そこに開拓せねばならない荒野を見つけてしまった。
いや、もしかしたら、子どもたちもまた、その荒野の中にいるのではないだろうか。
自身の心と音楽とをつなげる言葉、すなわち「比喩」を探して。

最後にジュリアン・ジェインズの著作の冒頭の言葉を記載しておこう。

「心」についての壮大な比喩である。

 ああ、この心という、実体なき国。
 目に見えぬ光景と耳を打つ静寂の、なんたる世界であることか。
 このおぼろげな記憶、漠とした夢想の数々。
 えも言われぬエッセンスの、なんたる集まりであることよ。
 
 そして、すべての秘めやかさはどうだ。
 声にならぬ独白と、未来を予見する助言の秘密の劇場。
 あらゆる気分や思い、神秘が棲む、見えざる館。
 失望と発見が集う、果てしない場所。
 私たち一人ひとりが意のままに問い、可能な限りを命じ、孤独のうちに君臨する一大王国。
 自らの過去と未来の行状を収めた問題の書を、つぶさに調べ上げることのできる隠れ家。
 鏡に映るもののどれよりも自分らしい内なる宇宙。
 自己の中の自己、すべてでありながら何物でもない、
 この意識ーいったいその正体は?

2015年9月14日月曜日

Tanz-Suite Nr.2, Flamenco & Cante Jonde

舞踊風組曲第2番は、久保田孝氏の最高傑作と名高い作品である。
久保田孝氏のHPにある楽曲解説はこちら



筆者は以前、久保田孝氏による本作品の指導風景を見学させていただいたことがある。
その中で、久保田氏がフラメンコの要素を、ギターやマンドリンのアーティキュレーションに求められていたことを覚えている。

もちろん、本作品は、久保田氏の留学時に耳にした様々な民族音楽がベースにある。
その中でも、この記事ではフラメンコについて考察したい。


1. フラメンコとは何か?

フラメンコの歴史は不明な部分が多く、その起源については謎が多く残されている。
その担い手となったのは、アンダルシアに住み着いたジプシー(ヒターノ)である。

1842年には、フラメンコを呼び物とする酒場として、セビリアに「カフェ・カンタンテ café cantante」が現れる。踊り手はジプシーたちであった。

フラメンコが国際的に広まったのは、20世紀初頭と言われる。
1922年、作曲家として著名なマヌエル・デ・ファリャ、詩人ガルシア・ロルカの両人が、フラメンコの再生を目指し、「カンテ・ホンドの祭典」を開催した。グラナダ市や芸術センターの後援もあり、アンダルシア一帯からフラメンコの歌い手が集結し、スペイン内外の人々にフラメンコの真価を示したのである。

さて、フラメンコには幾つかの要素がある。
まず、歌である「カンテ cante」、
次に、踊りである「バイレ baile」、
さらに、ギターの演奏である「トーケ toque」、
このほかに、手拍子の「パルマ palma」、指鳴らしの「ピトー pito」、掛け声の「ハレオ jaleo」がある。
これらが一体となったものがフラメンコとして知られている。

この中の「カンテ」について、「カンテ・ホンド(深い歌)」という言葉がある。


2. 「カンテ・ホンド(深い歌)」とは何か?

「カンテ・ホンド cante jondo」とは、アンダルシアの民衆歌謡の中でも最も伝統的な形式を備えた歌である。

そのジャンルは、シギリージャ、ソレアー、トナー、ティエントなどがある。
「シギリージャ」:「タン・タン・ターン・ターン・タッ」という変則的な5拍子の舞曲。
「ソレアー」:2拍子と3拍子の混合リズムであり、12拍子をひとつのまとまりとする。
「トナー」:最古のカンテであり、無伴奏。一定のリズムを持たない。
「ティエント」:ゆったりとした2拍子系のカンテ。

この復興に携わった第一人者がガルシア・ロルカでり、上記の「カンテ・ホンド」の祭典の主催をし、著作には詩集『カンテ・ホンドの詩』がある。

彼の「カンテ・ホンド」についての言葉を挙げよう。
「私たちの『神秘的な魂』の、もっとも感動的で深い歌の数々なのです。私たちの歌心のいちばん輝かしく結晶した部分なのです」
「それは死んだ幾世代もの叫びです。消えた幾世紀もの、突き刺す哀歌なのです。ほかのさまざまな月、ほかのさまざまな風のもとでの愛の、悲痛な追想なのです」

アンダルシアの最も「神秘的な魂」の、もっとも感動的で深い歌であり、死んだ幾世代もの叫び、それが「カンテ・ホンド」である。


3. まとめ

久保田孝氏が、どのようなフラメンコの作品から着想を得たのかは定かではない。

しかし、フラメンコには、伝統的な形式があり、スペインの「神秘的な魂」がある。

このような精神性をはらむ豊かな音楽性が「舞踊風組曲第2番」には存在し、そこに「深い歌(カンテ・ホンド)」があるということを我々は知っておきたい。


4. 参考文献

中丸明『ロルカ−スペインの魂〈集英社新書 0053F〉』、集英社、2000年。
ロルカ生誕百周年記念実行委員会編『ロルカとフラメンコ−その魅力を語る』、彩流社、1998年。
(株)イベリアHP(http://www.iberia-j.com/)